新年のご挨拶に代えて
平成二十六年 元旦
新年明けましておめでとうございます。
皆様にとって健康で幸せな一年になりますように。
時の流れが速く感じられます。子供のことは郷里徳島の田舎で朝から晩までたっぷり遊んで一日が長く豊かに感じられましたが、高校生になったころから少しずつ一日が短く感じられ始め、医学生になってからはさらに短く、医師となってからは一年も短く感じられるようになりました。年齢を重ねるにつれてその一年もますます短く感じられます。音楽的に例えれば人生の時間はaccelerandoだなあと感じます。
私の中学生の頃は、カラヤン・ベルリンフィルの全盛期でベートーヴェンの交響曲のレコードを次々に買って、自宅のオーディオ(母親にしつこくねだって買ってもらったもの)で毎晩の様に大音響で聴いていました。高校一年の時にカラヤン・ベルリンフィルが来日し、東京・普門館でのベートーヴェンの第9交響曲演奏会がFMラジオで生放送されて、徳島の田舎の家の二階でエアチェックしながら冒頭の弦の六連符から引き込まれ、その圧倒的な演奏に聴き入ったことを鮮明に記憶しています。その頃「小説ベートーヴェン」という翻訳本があって、夜な夜な布団の中で読んでいました。そしていつかベートーヴェンのゆかりの場所、特に生まれた家を訪れてみたいと思っていました。それから35年もの歳月が流れて、ついに去年の10月23日にボンにあるベートーヴェンの生家を訪れ念願を果たすことが出来ました。
現在そこはベートーヴェン・ハウスとして生前に使っていた楽器や自筆の楽譜、手紙、補聴器具など貴重な品々の他、ベートーヴェンの遺髪も間近で目にすることが出来ます。(携帯レコーダーのこなれた日本語の解説はとても充実しています。)一階から順に階段を登って展示を見ていくようになっています。幼少時から晩年までの人生を綴った展示を見てきて、最後にベートーヴェンが生まれた屋根裏の小部屋に足を踏み入れます。小さな窓がありますが、ガラスの表面はあまり平旦ではないので、中庭の景色はゆがんで見えます。四畳半ほどの広さの細長いその屋根裏部屋の床板は縁が磨り減って丸く、歩くとギーギーと軋みます。
多くの展示がされている他の部屋と異なり、この屋根裏部屋はガランとして簡単な解説バネルの他には二つの物しか置かれていません。一つはベートーヴェンが42歳の時に型を取ったライフマスクで、がっちりした顔立ちから精神的な逞しさが感じられます。もう一つは56歳で死去した翌々日に遺体から取られた頬がこけ目が窪んだデスマスクです。誕生の部屋にデスマスクが置かれているのです。私はここにしばらくずっと立っていました。彼はここで生を受け幼少期を過ごし、ボンで音楽の勉強をしながら宮廷楽団でオルガンやビオラを演奏し、作曲家を志してウィーンに旅立ち、音楽家なのに聴力を失うという運命と闘い、遺書まで書いた自殺を思い止めて、音楽に革命を起こし数々の名曲を書いてから、この世を去って逝きました。
半時間ほどだったでしょうか、不思議とこの間私以外に誰もこの部屋に入ってきませんでした。ベートーヴェンの生と死が同居したこの小さな空間に私一人で立っていたのです。なぜかこの部屋を去るのが名残惜しく、これほどまでに去りがたい場所を訪れたのは初めてでした。階下に降りる狭い階段に向かったり戻ったりしながら、やっと階段を下り始めた時、階下からピアノの音が聴こえてきました。彼の最後のピアノソナタ、私の大好きな第32番の第二楽章が1階にあるミニ・コンサート用の部屋(かつてベートーヴェン家の台所だった場所)にあるオーディオから流れてきていたのです。その時、「ああっ」という感動と共に“生は環の如し”という心の声が聞こえたのです。人は自分の意志とは無関係に、運命の定めた場所と時代に生まれ落ちて、そこから自分の足で自分なりの人生を生きて、年をとっていつかこの世を去っていく。それは、禅僧が筆で描く“円相”のようであるけれども、本当は円ではなく“環”なのだと感じたのです。円はその“形”が意識され初めと終わりがあまり意識されないけれども、環は形ではなく初めと終わり、その間の連続した“軌跡”がずっと意識されていて、最後に生まれた場所に帰る。帰った時には体は衰え線はかすれるけれども、生まれ落ちた時とは異なる存在に昇華しているのだと思います。人それぞれの人生の環があり、人生をかけてそれぞれの環を描いていく。大きな環、小さい環、太い環、細い環、端正な環、歪んだ環、かすれた環、滲んだ環・・・、まさに生の環はその人だけが生涯をかけて描ける環。良し悪しはありません。ただ、環の最後はこのソナタのように軽やかに蝶が舞うようでありたいと思います。
舞いながら 舞を脱けゆく 秋の蝶
加藤直克(母校自治医科大学の恩師)句集 葆光(170貢) より
♪ ピアノソナタ第32番 第2楽章(演奏 ヴィルヘルム・ケンプ)
“生如環 Ein Leben formt einen Ring. ”
im Geburtszimmer von Ludwig van Beethoven, Bonn
23.Oktober.2013
ベートーヴェンハウスの“入口”
ベートーヴェンが生まれて幼少期を過ごした家屋は、通りに面したこの建物の裏側にあります。
(残念ながら中の写真撮影は禁止。)
ボンの中央広場の郵便局前にあるベートーヴェン像
老いも若きもベートーヴェンの下で思い思いのお昼を楽しんでいました。
ボン中央駅
ボンの夕方 ライン川沿いの散歩道
ジョギングをしている人とよくすれ違います。ベートーヴェンも子供の頃この道を散歩したことだろうなと思いながら、1時間ほど散歩しました。