死にたまふ母
2011年12月30日金曜日
12月14日朝、診察が始まる10分前、妹からの電話が鳴りました。徳島の病院で母は81年の生涯を閉じました。病気と苦労の多い人生でしたが、人に可愛がられる得な性格で人前では大体笑っていました。しかし、一人になればいろんな思いが巡っていたことだろうと思います。
母は終戦前後に女学校から高校に移行した世代です。女学校時代には校庭で皆で芋を栽培していたと言っていました。母には当時旧制中学に通っていた兄がいましたが徳島大空襲で避難中に、爆風で田圃の中に飛ばされ、傷口から破傷風菌に感染したため破傷風で死去しました。生家は代々の薬屋でしたが、消毒薬は全て軍隊に拠出させられていたため、薬屋の息子でありながら傷口の消毒もできないまま、破傷風を発症して短い生涯を終えました。母は本当は東京にでもでて声楽をやりたかったのだそうですが、兄の他界で生家の薬屋を継がなければいけなくなりました。夫(私の父)は私が11歳の時に水難事故で他界してしまったので、私と2人の妹を田舎の薬屋をしながら女手一つで育ててくれました。苦労の多い人生だから、笑っているしか仕方なかったのかもしれません。
私の高校時代、現代国語の授業で先生が斎藤茂吉の歌集「赤光」を生徒に読み聞かせてくれたことがありました。田舎の県立高校でしたので、生徒全員が授業を真面目に聞いていることはないのですが、その中に教室がしんと静寂に包まれた句がありました。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天にきこゆる
この句は30年以上経った今でも記憶の片隅に残っていましたが、母の状態がだんだん悪くなってきて週末京都から徳島に帰って、狭い観察個室に移った母の病床のとなりに、丸椅子2つと肘掛け椅子一つを「く」の字に配置してその上で添い寝をしているときに、ふとこの句が古い記憶から蘇ってきました。窓もない冬の観察個室で聞こえてくるのは、蛙の声ではなく空調と隣のナースステーションのナースコールの音でしたが。
死に近づきつつある母とって、死はどういうものなのだとうと思いを馳せました。苦労に苦労を重ねた人生の最後に迎える死は、恐怖や不安でしょうか。私は死に近い母の顔を見ていて、そうは思えませんでした。痛みや呼吸困難がなかったこともあったのですが、終末期の血液検査数値とともに意識と呼吸が徐々に遠のいていく有様は、死は自然であると教えてくれているように感じられたのです。14日の予約患者さんの診療を終えてから、高速バスで徳島に向かい夜になって既に遺体となった母に向かいました。母の首元はまだほんのりと温もりが残っていました。悲しみがないといえば嘘になりますが涙は出ず、お疲れさま、有り難うございましたという気持ちでした。残された者は生を受けている限りは、それぞれの道を生きていくしかありません。母は薬屋として篠原の六代目、私は医師になりましたが先祖と同じく薬、特に生薬を取り扱う仕事をしているということで先祖が代々徳島でやってきたことを七代目として、縁あって伝統のまち京都でやらせて頂いていることに、不思議な御縁を感じます。
母の葬儀を終えて、徳島から京都に帰るバスの中、何故か私の頭の中でマーラーの第三交響曲の終楽章がずっと鳴っていました。母の死も、この曲のように命が大きな自然に帰ってゆくプロセスのように感じられたのです。それはいつか自分もゆくプロセスです。これからも人生の出来事をいくつも経験しながら、その時が来るまで、やるべきことをこつこつやり続けていきます。