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第25話 文化の揺りかご 〜儒学を重んじた桃源郷〜

2006年9月22日金曜日(高知新聞連載より一部改変)

イラスト 高知新聞社 提供   

中医学25・桃源郷.jpg 中国安徽省、黄山の南。その昔、この狭い山奥の徽州の地に戦乱を逃れて多くの人々が流入して来ました。黄山の北側のような平原はなく、耕地が少なかったので多くの人口を養うことができませんでした。

 徽州の人々は生活のために商売を始め、この地域を流れる川である新安江(しんあんこう)沿いに外の地域との交易を始めるようになりました。それが、徽商(きしょう)といわれる商人たちです。

 徽商は商売だけでなく学問、特に儒学を重んじていたため、商道徳が守られていました。また、この地域の医者の多くは儒医、すなわち医者でもあり儒者でもありました。いわゆる四書五経のような儒学の経典の素養を持った医者です。

 医学の普及のためには書物の流通だけでなく文具(紙、筆、墨、硯)も必要です。呉謙、程国彭、呉崑、程杏軒ら徽州の名医の出身地である歙県とその周辺は、端渓硯と並んで有名な歙州硯の産地です。徽州がいわゆる文房四宝の生産地となったのも、医学を始めとする学問に携わる知識人が多数存在し、多くの需要があったことと関係しています。

 裕福な家は書院を造り家庭教師を招いて師弟教育を行いました。四年前、私は明代清代の町並みが保存されている徽州屯渓の老街を訪れ、その中の一軒に足を踏み入れました。

 天窓から光が差し込む一番明るい部屋の壁沿いに一辺約八十センチ四方の正方形の机があり、向かい合わせにいすが置かれていました。ガイドの説明によると、ここに家庭教師を招いてマンツーマンの師弟教育を行っていたのだそうです。

 さまざまな文化の勃興と地域経済発展の密接な関連性は、西洋のローマやベネチアだけでなくこの徽州においても然りでした。徽州に移住してきた知識人が孔子や孟子の教えに代表される儒学の道徳に基づいて地域をリードし、徽商は儒商として商売し周囲の信頼を得て豊かになり、その経済的恩恵がさまざまな学問や文化に還元されるという理想的な循環が数百年にわたって続いたのです。

 儒学の道徳意識をもって医療や商売といった実業を行っていたのは徽州だけではありません。江戸時代の日本もそうでした。庶民の信仰としての仏教の中に儒教の考えが浸透して祖先を祀り、自然を神と見る日本古来の神道とともに、日本人の心を形作ってきたように思います。

 高い山々に守られた桃源郷が徽州であったように、海に守られた日本も桃源郷だったのではないでしょうか。徽州を見てきてそう思いました。